「大学改革」にかかわる諸々の施策が深刻な問題を抱えていることについては,佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書)や山口裕之『「大学改革」という病』(明石書店)が,かなり根底的・多面的かつ詳細に分析・考察を展開しているから,私自身がそれらに対して付け加えるべきことは何もない.しかし,研究・教育を自治的に運営するという内実を完全に崩壊させることになりかねない上記の施策については,やはり自身の言葉で見解を提出する必要があると思われたので,パブリックコメントを提出することにした.その内容を下に再掲しておこうと思う.今回の施策も,大学を営利企業であるかのように考えて,営利企業の経営方法を吸収するという既存方針の延長線上にあると思われるが,その実,民間企業が採用するはずもない,研究・教育成果を毀損する可能性が極めて高い経営方法をあえて大学に採用させようとしている.だからこそ,今回の省令の撤回を求めるという内容である.
株主のような(実質的な)外部者の発言権を増大させることについては,特に金融危機以降,ネガティブな評価が多くなっている.こういう文脈で,経営権を事実上外部者に委ねるという選択肢は,もしも民間企業の経営に学ぶというのであれば,ましてや到底考えられないのではないかというのが私見である.さらに言えば,民間企業ですら許容しない程度まで,外部者に決定権限を与えることを,大学という組織にだけ要求するということは,どういう意味で正当化できるのだろうか?もちろんその理屈は明示されていない.
それからもう一つ.「研究力向上」ということがこの施策のお題目になっている.しばしば強調されるように,自由な発想を支える研究費と,将来を見通せる雇用が重要なのは言うまでもない.それらに加えて,世間ではあまり指摘されてはいないものの,前職(=工科系の国立大)時代の見聞からよくわかったことは,力量があるシニアの研究者が徹底的に若手研究者と付き合って,とことん議論することが,若手研究者の研究力向上には本当に重要らしいということだ(注1).そうすると若手研究者は本当に伸びて,大きな研究費や企業との(意味のある)共同研究が取れるようになる傾向がある.しかし教員はみなペーパーワークや外部との打ち合わせできわめて多忙だから,そういう余裕がない場合が多い.前職の職場では,自身の時間の「持ち出し」でそれをされていた方がいらした.逆に言えば,独法化以降に顕著な「多忙化」のせいで,大学政策に関わる人達が期待する,生産的な(=企業の開発作業の「下請け」ではない)産学連携(注2)は増えない可能性も小さくない.その一因は,企業の担当者と火花を散らして丁々発止できるような力量を持った研究者が育ちにくいことにある.こういう見えにくい形でも,諸々の「大学改革」施策は,近い将来の研究基盤(=未来の研究者の力量)を削り取っている.このことを,大学政策にかかわる人々には危機感を持って理解してもらいたい.
(注1)これは,URAが体制として整備されているか否かとは別次元の問題であることを強調しておきたい.この問題に限らず,組織体制を整備しさえすれば問題は解決するという思考方法が強すぎるように思われる.これは,少し前に流行った「新公共経営」(new public management: NPM)や,さらに理論的にさかのぼるならば「組織の経済学」(economics of organization)に起因する問題だと考えられる.むしろ,「組織能力」やその基盤である「組織ルーティン」(organizational routine)に着目する,進化論的な企業論(evolutionary theory of the firm)の視点こそが有益・枢要な問題系だと思われるが,ここではこれ以上議論しない.
(注2)新しい研究上の知見を生み出し,なおかつ,産業上の問題を解決するような共同研究のことを,ここでは「生産的」としている.前職での見聞で身にしみて分かったのは,大学との共同研究には企業側の力量も必須だということである.この点については,企業が基礎研究をしなくてはならないのは,企業側にも「吸収能力」(absorptive capacity)が必要だからだと論じたNathan RosenbergやKeith Pavittなどの研究が著名だが,企業側の力量を高める必要については,日本での議論ではほとんど顧みられていない.これは特に,製造業基盤を支える中小企業の状況を考えると,非常に重要な論点だと思われる.
今回パブリックコメントに付されている「省令」案,「方針」改正案はもちろんだが,国立大学の法人化以降,一連の国立大学「改革」は,民間法人企業の経営発想を大学に導入しようとするものだったと理解しても大過ないだろう.しかし,「方針」改正案に含まれる大学運営体制の姿は,民間企業の経営実態とは大きくかけ離れている.そしてそれは,企業統治に関する経済学・経営学的研究の知見を踏まえるならば,経営成果を大きく毀損する可能性が高いものである.この観点から私は,今回の「方針」改正案の撤回を求める.以下ではその理由を簡単に述べたい.なお,「大学は民間法人企業ではないから,民間企業の経営を模することには反対である」という,私も賛成する批判が当然あり得るが,以下ではこの批判については無視する.
今回提示されている資料「(参考)国際卓越研究大学に求められるガバナンス体制の概要」には,運営方針会議に求められる事項が明記されている.特に,「執行部関係構成員のみや学内の構成員のみで議決が成立しないことを担保する仕組み」が求められると記されている.例示されているのは,「特別多数決の導入,執行部以外や学外構成員による賛成を議決の要件とする,構成員の相当程度(例:半数以上)を学外構成員とする」などの項目である.つまるところ,外部委員に拒否権を与え,実質的な決定権を与えるということである.
これは民間企業で言うと,外部取締役などの外部者に経営権を譲渡することを意味する.確かに,監視を受けない内部昇進の経営者が社会的に害悪をまき散らすような経営を行うことには大きな問題があり,社会的なガバナンスの体制を備えることは必要である.しかし,経営実態についてよく知らない外部監査役の権限を強化することは無益であるという事態は,多くの実証研究が繰り返し示してきたことである.また,内部昇進型の経営者が大きな経営権を握る日本型の経営者企業にも一定の経済合理性があることは,研究上否定されてはいない通説でもある.資金提供者であるとされる株主の発言権を大きくすることが,会社法の建前にも合致しているという,主にアングロサクソン諸国による理解があるが,こうした株主重視型の企業では,自社株買いなどによる株主への利益還元が優先されるために,生産的な投資が停滞し競争力を落としているという事実を強調する研究も少なくない.
このように,外部者による経営参画,および資金提供者による発言権の強化は,企業経営の持続可能性や企業・国の競争力にとって無益であるばかりか,それらを損ないうるのである.民間企業ではさすがに経営権は経営者が持っているが,それでも外部者関与は無益ないしは有害なのである.ましてや今回の上記資料のように,経営権を実質的に外部者に付与してしまえば,その弊害は巨大なものになりうると言わざるを得ない.
以上のような弊害が予想されるため,今回の「方針」改正案の撤回を切に求めたい.本当の問題は,内部者の経営権を取り上げることではなく(そのような方向に進んでいる民間企業は皆無であろう),内部者による経営をいかに社会的に良いものにガバナンスするかということである.
※パブコメに付された資料は削除される可能性もあるので,ここにも再掲することとしたい.