(※『Trans/Actions』第5号に書いた拙稿を採録したものです)
1 はじめに
世界金融危機以降の先進諸国は、国別に濃淡はあるものの、基本的には一貫して深い経済停滞の中にある。新型コロナウイルス感染症が、この経済停滞を一層深刻なものとしていることは言うまでもない。この間、特に南欧で顕著だったが、緊縮財政によって各国の医療・保健システムが脆弱化していることに注目が集まった。また、人類の環境負荷がますます高まっていることがこの感染症の根底にある要因だという見解も有力である。こうした認識を踏まえて、ヘルスケアや環境負荷に関わる社会課題を解決するイノベーションを生み出し、持続的な経済成長を可能にすることによって、今回の深刻な経済危機を脱するべきだとする戦略が、欧州を中心に盛んに提起され始めている。その背景には、巨額の財政支出によって金融システムを応急措置的に救済したものの、巨大な金融危機を生み出した経済の「金融化」という構造的な問題を解決し得ず、新たな時代の経済システムを生み出す方向に向かえなかったという、世界金融危機以降の経済政策への苦い反省がある。具体的には、社会の問題を解決し、人々の安心・安全な生活を支える生産的な経済構造を作り得ず、様々な要素技術の潜勢力が開花する新しい時代を切り拓く契機にできなかったということである(Perez, 2016)。この反省を踏まえ、コロナ禍に対する財政支出が、経済格差を拡大する旧来の金融化した経済構造、あるいは環境負荷が大きい産業構造を温存するだけのものとなってはならず、社会問題を解決する新たな産業・雇用を生み出す形で経済を刷新しながら経済復興を図るという目的に向けて支出されるべきだという提案がなされている(1)。
先進諸国で改めて「ミッション指向型イノベーション政策」(Mission-oriented innovation policy:以下「MOI政策」と略記)が注目されているのは、こうした社会的文脈においてである。MOI政策は、上記のような大きな社会問題を解決するイノベーションを生み出すことを目的としたイノベーション政策である。この政策によって、社会問題の解決と産業・雇用の刷新、ひいては持続可能な経済成長を両立させることが目指されている。経済学はこれまで、市場における私企業の活動に委ねると問題が生じる場合に限って、その補正のために政策介入が正当化されると論じてきた。例えば、収益を得られる可能性が小さい以上、私企業には基礎研究に投資を行う動機付けが弱いから、政府が基礎研究に投資を行うことは正当である、というのが典型的な議論である(Nelson, 1959)。しかし、MOI政策が生み出そうとする革新的な財・サービスにはそもそも市場が存在しないので、イノベーションを方向づけ、新しく市場を創造するために、公共政策にはより積極的な役割(2)が求められる(Mazzucato, 2013)。自動車の排気ガス規制が敷かれたことによって、触媒技術の巨大市場が創出されたというのは、その古典的な事例に他ならない。
以上のことから、大きな期待を背負っているMOI政策の可能性と限界について、またその政策実践について検討する必要性は高まっているということができる。本稿が詳しく検討するように、折しも欧州も日本もMOI政策をほぼ立案し終え、開始しつつある。双方の基本性格を的確に理解することは、各々の異なる可能性と限界を見定める上で不可欠である。そこで本稿では、政策の準備過程で公開された双方の政策文書を詳細に検討することによって、両者の政策アプローチの共通性・相違を明らかにし、それによって双方の可能性と、直面すると予想される課題について論じることを目的とする。政策に対する十全な評価はむろん実施後に可能になるので、それを現段階で期待することはできないが、それでもなお、両者の特質について重要な知見を得ることは不可能ではないと考えるためである。以下、第2節と第3節ではそれぞれ、欧州連合と日本で立案されているMOI政策の概要と背景、政策形成プロセスについて検討を行う。そのうえで第4節では両者がいかに異なっているかを明らかにした上で、その背景と含意について議論したい。
2 欧州連合における「ホライズン・ヨーロッパ」プログラム
(1)目的と概要
「ホライズン・ヨーロッパ」は、欧州連合が2021年から7年間実施する、予算総額1,000億ユーロの研究・イノベーションプログラムで、2020年まで実施されている「ホライズン2020」の後続プログラムある。プログラムは、(1)卓越した科学(258億ユーロ)、(2)グローバル課題と欧州産業競争力(527億ユーロ)、(3)イノベーティブ・ヨーロッパ(135億ユーロ)の3つの柱からなる。(1)は基礎科学振興、(2)はSDGs達成のための技術・ソリューションの開発促進、(3)はブレイクスルー型のイノベーションとエコシステム創出の促進がそれぞれの主旨である。
53億ユーロが配分されたMOI政策は(2)に含まれ、今回新たに盛り込まれた目玉政策の一つである。ミッションとは「社会に対して強いインパクトがあり、人々を鼓舞し、かつ成果を図ることができる目標」を意味する。ミッションを設定するのは、研究とイノベーションをより一層、社会や市民のニーズに結びつけるためである。具体的には、広範囲にわたる社会的問題が「課題」、それを解決するための特定の手段・行動群が「ミッション」である。課題は「A型」と「B型」に分けられ、前者は解決可能性があり、目標設定が容易なものであるとされ、1960年代のアポロ計画での「ムーンショット」がその典型例である。それに対して後者は解決策が未知で、問題も複雑で容易に定義できない(wicked problem)とされる(3)(RISE報告書④)。アポロ計画のように、ミッションを設定し、その実現に向けてイノベーションを創出するというミッション指向型の政策はこれまでにも行われてきたが、そこでは目標設定や手段の策定から、実施過程でのモニタリングに至るまで、すべて中央集権的に行われてきた。しかし、今回計画されているMOI政策では、計画と実施の分権化を図り、分権的な実験の自由度を高める点に特徴があるとしている(ESIR報告書②)。
具体的なミッションを設定すべき五つの大きな領域は、(1)社会の転換を含む気候変動への適応、(2)ガン、(3)健全な海洋と水質、(4)気候中立的なスマート都市、(5)健全な土壌と食料である。これらの領域に具体的なミッションを設定して公的研究開発投資を実施し、民間企業の収益期待を向上させることにより、日米の後塵を拝している民間研究開発投資を呼び込むことを見込んでいる(ESIR報告書②、Mazzucato報告書⑧)。五つの領域にはそれぞれ理事会(Board)と議会(Assembly)が設置されている。彼らが2020年5月までに具体的な目標とスケジュールの案を策定し、九月までにミッションを具現化することになっている。技術イノベーションと社会イノベーションの両方によって問題解決を図ることが期待されているのは、後述の通りである。
(2)現実の問題と認識
欧州連合では、米国や日本、中国に対してイノベーション投資・成果の両面で劣後しているという認識が根深く存在する。とりわけ、公的研究開発投資の対GDP比はこれら諸国を上回っているにもかかわらず、それが民間研究開発投資を誘発できておらず、生産性上昇にも結び付いていないとされる(ESIR報告書②)。基礎研究ではフロントランナーであるにもかかわらず、イノベーション成果を生み出し得ていないのはなぜかという問いは、「欧州パラドックス」の名の下に議論されてきた。その認識に基づいて、欧州連合の政策は大学や研究機関と民間企業の連携を強化して、基礎研究の知見を産業に移転することに注力してきた。しかし、Dosi
et al. (2006) の分析は、基礎研究でもトップランナーであるという認識は正しくはなく、また企業側の研究開発投資および設備投資の努力が不十分であることを明らかにしている。以上より総じて、民間企業の研究開発投資が相対的に小規模であることが、欧州のイノベーション成果を高めるうえでの一大制約になっているということが共通の認識となってきている。こうした事実認識に基づいて、民間企業の研究開発投資を誘発することができる政策アプローチとしてMOI政策が立案されているということを強調する必要があるだろう。伝統的な科学技術政策ないしイノベーション政策が、補助金や減税等の手段で研究開発投資を促進して、いわば供給サイドからイノベーションをプッシュすることに力点を置いているのに対し、MOI政策の大きな特徴は、社会的なニーズを明確化しそれを満たす開発を促進することにより、いわば需要サイドからイノベーションを誘引する性格を持っているという点にある。需要サイドに力点を置いた体系的なイノベーション政策の提案は、少なくとも欧州連合では、2006年に発表された「Aho報告書」(Commission
of the European Communities, 2006, Putting Knowledge into Practice: A Broad-based Innovation Strategy for the EU)に遡ることができるし(徳丸
2017)、2020年までの7年間の研究・イノベーションプログラムである「ホライズン2020」にも「社会課題とイノベーション・パートナーシップ」プログラムとして導入されている。だが、ホライズン2020の中間評価は、前出のプログラムが社会経済に大きなインパクトをもたらしていないと結論付けた(RISE報告書④)。中間評価報告書は6つの提言をとりまとめたが、その1つに、ミッションの設定と広範な市民参加によって一層大きな社会経済的インパクトを与えるべきという項目が盛り込まれた(Lamy報告書①および中間報告書③)。これらの経緯から分かることは、需要主導型イノベーション政策の一環であるMOI政策は一朝一夕に登場したわけではなく、欧州連合や各国での長期間の検討・実践を十分に踏まえて登場しているということである。その意味では、当事者たちがミッションの新規性を強調したいことは理解できるにせよ、事実としては、新規性を過度に強調するのは適当ではなく、むしろ過去の政策実践からの発展という連続性も強調する必要があるだろう。
(3)政策形成プロセスと内容
既に述べたように、MOI政策は、ホライズン2020プログラムへの中間評価報告書と、欧州委員会ハイレベル専門家グループによる「Lamy報告書」(2017年7月)で提言されたことが直接の発端となっている。その後、経済・社会的インパクト専門家グループによる経済的合理性に関する評価が「ESIR報告書」(2017年12月)として、また、ミッションの考え方や選定方法・基準などに関する、研究・イノベーション・科学専門家ハイレベルグループによる検討結果が「RISE報告書」(2018年2月)としてそれぞれ発表された。これらを踏まえ、科学アドバイザーに任命された経済学者マッツカート氏による「マッツカート報告書」が2018年2月に発表され、ここではミッション選定の重要な基準などについて検討された。2018年6月に欧州委員会が公表したホライズン・ヨーロッパのプログラム案は、方法論や概念、経済合理性などに関する、これらの多角的な検討の上に成り立っている。
MOI政策は概念的な検討のみならず、これまでの政策実践も踏まえて登場していることは、政策立案に当たって、日本、米国を含む11か国ですでに実施されたMOI政策について、17の事例が詳細に分析・検討されていることにも表れている。日本については「水素社会」関連政策が事例として取り上げられている。これらの事例ではいずれも「ミッション」という概念が使われているわけではなく、また必ずしもイノベーション政策としては理解されてもいないが、社会的な課題を解決するイノベーションを政策的に促そうとしている点では共通している。17本の事例報告書は2018年3月に、また以上の事例を分析・評価した2本の総合報告書は同年5月に刊行されている。
政策の構造上、MOI政策の成否を決めるうえで重要な一条件は、個々のミッションがいかなる検討を経て、どのような基準で決まるかということだと考えられる。前出のマッツカート報告書の提言を受けて、ウェブページで公開されている欧州委員会が立てたミッション選定方針は以下の通りである。期待されるアウトカムは明示されるものの、それを実現するための具体的な方策はボトムアップで多様に構想されるべきだとされる点に特徴がある。
・大胆で人々を鼓舞し、社会全体にとって関わりがあること
・明確な焦点を有し、定量化可能で、一定期間内で達成可能であること
・社会的インパクト指向だが現実的な目標であること
・多様な資源を動員するものであること
・異なる領域の異なる研究・イノベーション活動を結節するものであること
・現存するシステムの問題を解決するのではなくシステムの転換を促すものであること
・市民が研究・イノベーション投資の価値を理解しやすいものであること
上述の通り、5つの領域の理事会と議会が具体的なミッションを策定するが、ここで特筆するべきことは、2019年12月から本稿執筆時点(2020年9月)までの間に、五領域で合計六四件にのぼる各種のワークショップが実施され、利害関係者や市民との実質的な討議が重ねられていることである(報告書⑤)。紙幅の都合上、以下では、2020年5月に公開された5領域のミッション具体案のうち、2つの領域を事例として挙げるにとどめる(報告書⑥⑦)。いずれの場合でも、検討メンバーが部門横断的であることと、技術・社会両面のイノベーションが期待されているということが共通している。
(ⅰ)「気候中立的なスマート都市」領域の場合
理事会メンバーの出身組織情報は不明だが、議会メンバーの構成は、専門組織(研究機関と大学)12名、企業8名、非営利組織6名、行政4名の合計30名であり、部門横断的な構成になっている。ミッション素案はまだ具現化されていないものの、①デジタル技術の応用、②エネルギー効率の向上、③再生可能エネルギー利用と脱炭素化、④すべての人のための効率的移動(クリーンで安全、かつ高いアクセス可能性)、⑤循環型経済、⑥カーボンフットプリントの活用、という六分野でのイノベーションに対する期待が述べられている。いずれにおいても技術イノベーションのみならず社会イノベーションも不可欠だと考えられている。したがって、地方自治体には、企業、大学、市民社会組織と連携して当該ミッションに応募することを期待されている。
(ⅱ)「ガン」領域の場合
同様に、理事会メンバーの出身組織情報は不明だが、議会メンバーの構成は、専門組織(医療機関、研究機関と大学)17名、企業4名、非営利組織1名、行政1名の合計23名で、やはり部門横断的な構成であることが確認できる。この領域ではすでに13個の具体的なミッション素案が提起されているが、これらのうち、技術イノベーションが関わるものは8個、社会イノベーションが関わるものは12個である(重複を含む)。例えば、「ガン予防プログラムの開発と実施をサポートする」というのはどちらかといえば社会イノベーションに関わり、また「個人向けにカスタマイズされたガン治療アプローチを発展させ実施する」というのは技術イノベーション指向であると考えられる。
前出のRISE報告書④によると、技術プッシュ型の政策とは異なり、MOI政策は社会的な成果に焦点が合わされているために、技術開発者以外の多くの当事者が関わらなくては目標達成も難しい。それゆえに、多くの当事者が合意可能なミッションを構築することが枢要となる。各種ワークショップが重ねられ、またミッションの検討が部門横断的なメンバーによって主導されているということは、ミッション策定に当たっては社会的対話(social dialogue)や共同設計(co-design)を行うべしという同報告書の提言に沿ったものであると言える(4)。
以上より、ミッションの概念や策定基準が入念に検討され、方針が明確化されているという意味でも、また、利害関係者が部門横断的に討議してミッションを策定しなくてはならないという意味でも、ミッション策定が一部の主導者の知見・能力と判断に大きく依存する可能性は高くないと考えられる。この点は、以下の日本の事例とは対照的だと思われる。
注
(1) 例えば、ジェフリー・サックス、ジョゼフ・スティグリッツ、マリアナ・マッツカートなどの経済学者が名を連ね、環境問題の解決と公正で活気のある経済復興を両立することを訴えたLetter from economists: to rebuild our world, we must end the carbon economy, The Guardian (August 4, 2020) や、Institute for Innovation and Public Purpose (2020) はその典型例であろう。ことにイノベーション関係では、本稿が扱うMOI政策を含め、イノベーションの方向性にも政府が公的な影響力を行使すべきであるという議論が活発になってきている。例えばDani Rodrik, Democratizing Innovation, Project Syndicate (August 11, 2020) は、現在登場しているイノベーションがごく一部の人間集団の局所的な嗜好やニーズだけを反映し、必ずしも社会のニーズを反映したものとなっていないことを経済学者として問題視している。
(2) もちろん政府の規制や裁量的政策は誤りうるので、この問題は「政府の失敗」の可能性を念頭に構想される必要がある。詳しくは、進化的政策という観点からこの問題を論じた徳丸(2020)を参照されたい。
(3) ネルソン(2012)はその古典的分析の中で(原著出版年は1977年)、月に到達するという課題を人類はクリヤできたのに、なぜ都市の犯罪・貧困などの問題をいまだに解決できないのかと問い、後者のような社会問題にあまねく見いだされる「複雑さ」にその答えを見出している。本文で言及している「A型」「B型」という区分は、ネルソンの「月」と「ゲットー」にそれぞれ対応する。
(4) 実際にRISE報告書④は、ニクソンの「ガン戦争」やオバマの「ガン・ムーンショット」と欧州のガン・ミッションが違うのは、分野横断的な専門家や患者団体、研究者、企業などからなるコミュニティが存在する点にあると強調している。Cancer Core EuropeやCancer Prevention Europeがその種のコミュニティの典型例であるとされる。それによって、ボトムアップで患者中心型のイノベーションを生み出せるし、ミッションの実現に必要なクリティカルマスを作り出せる点が欧州の優位性だという。