幸福度かケイパビリティか?

【表】主観的ウェルビーイングおよびポジティブな感情の規定要因:通常最小二乗法による推定
【表】主観的ウェルビーイングおよびポジティブな感情の規定要因:通常最小二乗法による推定

左に示した表は,主観的ウェルビーイング(ほぼ生活満足度を意味する:以下「生活満足度」とする)とポジティブな感情の規定要因を推定した結果である.ここから分かるのは次の2点である.

  • 生活満足度に対して正で有意な影響を及ぼす,上から3つの要因は,ポジティブな感情に対しては有意な影響を持っていない.特に,所得水準を意味する一人あたりGDPは,生活満足度のみに有意に影響し,ポジティブな感情には有意に影響しないことは,特筆に値するだろう.
  • 生活に関する選択自由度は,生活満足度に対してもポジティブな感情に対しても,有意な正の影響を持つ.

すなわち,生活に関する選択自由度が大きいほど,生活満足度が高まり,ポジティブな感情を抱く可能性が高くなると言える.ポジティブな感情は明らかに幸福につながる要因だから,生活に関する選択自由度は幸福を間接的に規定する要因の一つだと言うことができるだろう.

 

ところでよく知られるように,経済学者アマルティア・セン(Amartya Sen)は,ある人が選択できる機能の集合をケイパビリティと呼び,それが経済発展の目標として枢要であると論じた.上で挙げられた「生活に関する選択自由度」は,主観的評価であることを差し引く必要があるものの,センのケイパビリティに近いと思われる.そう考えてもいいのであれば,上の推定結果はまさに,ケイパビリティの内実を丁寧に測ることが極めて重要だということを示唆している.

 

またそもそも,『調査』が幸福度指標として理解している主観的ウェルビーイングは,生活満足度を実際には意味している.前回論じたように,所得水準と経済成長率が同等であるならば,生活への不満・不安が少なく,ニーズが充足される国ほど生活満足度は高くなるだろう.そうだとすると,「生活への不満・不安」「ニーズの充足度」を直接かつ具体的に測る方が,主観的に生活満足度を尋ねるよりも,彫りが深い把握になるはずである.これもまた,ケイパビリティを測ることと極めて近い.

 

個人的には,社会の幸福度について語ることにも,また,幸福度を比較することにも懐疑的である.幸福は主観的なものだから,同一の物差しで異なる人々の幸福度を測ることにどれくらいの意味があるのだろうか.さらに,それを社会の幸福度として合成できるという考え方は理論的にはほぼ正当化できないだろう.仮に人の幸福度を測れたとしても,幸福に対する人々の捉え方が文化や社会経済の影響を受けるとすれば(多分そうであろう),各国の幸福度を比較することにはどれくらいの意味があるのだろうか(*).総じて,幸福度の国際比較という試みは,確実な基礎を欠いていると思う.そうではなくて,各人のケイパビリティについて丁寧に調査をし,それを比較するというアプローチの方が,より客観的で確実な基礎の上に立っていると思われるし,「どうするべきか」を考えることを可能にしてくれると思う.少なくとも,人々を不幸に陥れる要因を減らすための具体的な手がかりを与えてくれるだろう.逆に言うと,今回の幸福度調査は自国の状況に関する深い検討に誘うものとはなりえず,また,上位の諸国がどういう意味で優れているのかを深く検討できずに,いたずらにユートピア視しておしまいになりそうで残念だと思う.

 

(*) イソップの「酸っぱいブドウ」ではないけれど,社会経済的境遇に恵まれない人は多くの事柄を諦めるだろうから,わずかなことで幸せを感じるだろう.その結果,主観的幸福度は高いかも知れない.しかし問題は,その状態が本当にwellbeingを意味するのかどうかである.「健康で文化的な最低限度の生活」が確保されていない可能性が多分にあるわけだから.そういう内容のことを,センは指摘していたと思う.幸福度の分析が経済学では流行っている.測られた幸福度指標には何がしかの意味はあるだろう.しかし,どう測ったとしても,幸福度の指標だけを見て分析・考察を行っても,善き生への理解はさほど進まないのではないか.