この項の最後に,ベーシックインカムの実証実験を設計しているOlli Kangas(社会保険機構・教授)の見解を,Helsingin Sanomatの記事(2016/1/17付け)に依拠して見ておこう.彼によれば,あらゆる場面で就業インセンティブを削がないような社会保障の仕組みとしてベーシックインカムを制度設計することが,実証実験の目的であるという.つまり,現行の社会保障制度には,特に低賃金の仕事を忌避させるインセンティブが作用しているというが,このインセンティブを是正することがベーシックインカムの目的であるという.現在は,所得支持手当や住居手当,失業手当などのもろもろの手当が存在するが,これらは所得が少ないほど多くの額が支給される手当である.したがって,ある程度の給与水準を超える仕事でないと,就業することが損になるのだという.彼は,低賃金の仕事への就業を忌避させない社会保障の仕組みとして,ベーシックインカムを設計することを考えているという.
したがって,実証実験が狙っているような制度設計が可能となれば,ベーシックインカムについてしばしば言われる「労働インセンティブを削ぐ」という批判は当たらないことになる.むしろ,対人サービス方面で増えてゆくことが予想される低賃金労働部門への就業を促進させる仕組みとして,ベーシックインカムを位置づけている点が,大変興味深い.これは基本的には,前出のBjörn Wahlroos氏(巨大金融グループであるサンポグループの取締役会長)の見解と同じで,労働市場の構造変化に対応する方策としてベーシックインカムを考えると言うことである.
なお,記事の後半では,全国民に最低水準の生活手段を保障すべしと言う憲法の規定を,ベーシックインカム制度も満たさなければならず,したがって,ベーシックインカムの金額も現行の基礎的社会保障と同額以上でなくてはならないというKaarlo Tuori氏(社会保険機構・教授)の言葉を紹介している.現実の金額がいくらになるのかは政治に依存して決まるのだろうが,その金額を決める上で,福祉国家の理念は重要な意味を持つであろうことを示唆していて,これも大変興味深い.福祉国家の理念・理想と,労働市場・財政の現実とのせめぎ合いの中で,ベーシックインカム構想はこれから激しく揉まれることになるだろう.