昨年11月にフィンランドに滞在する直前に,フィンランドの社会保険機構(Kela:
Kansaneläkelaitos)がベーシックインカム実施の検討を開始するという小さなニュースを見た.現地滞在中はもっぱら,あとで書く「社会保健制度改革」の激論の最中だったから,ベーシックインカムについては,現地の友人たちとほとんど話題にしなかった.ところが12月7日には,フィンランドでベーシックインカムの導入が決まったかのような報道(たとえばこちら)が相次いでなされた.これは誤報で,直ちに社会保険機構も「初歩的な研究を始めたばかりだ」と火消しを行ったものの,反響は大きく,日本でも大きな話題になった.ちなみにベーシックインカムは,全国民に対して生活上最低限必要となる現金を政府が給付するという仕組みを意味する.フィンランドで検討しようとしているベーシックインカムは,特にuniversal basic
incomeと言われている.universal(普遍的)という言葉は,無条件に全国民に給付する,という点を強調して付けられている.
私自身,社会保障を専門に研究しているわけではなく,門外漢である.ただ,フィンランドを調査研究対象にしている以上,この動きを無視できないと強く感じてもいる.そこで覚え書きとして,事実関係を中心に整理しておきたいと思う.なお,ベーシックインカム研究の第一人者である山森亮氏(同志社大)によるこちらは,専門家による整理・見解として参考になる.
参考にした資料は,末尾にまとめて挙げることにしたい.
1. ベーシックインカム導入検討の現段階と目的
社会保険機構がまず行おうとしているのはベーシックインカムの社会実験であり,2017年の実施が計画されている.現在はまだその初歩的な研究段階であり,社会保険機構の研究部門とヘルシンキ大学,タンペレ大学,トゥルク大学,東フィンランド大学,政府イノベーション基金Sitra,シンクタンクTänk,および経済研究所VATTからなるチームが研究に当たっている.この研究プロジェクトは,フィンランド政府の「分析・アセスメント・研究計画」のひとつとして実施されている.2016年春に他国での実験結果のレビューを行い,2016年の後半に実験デザインが構築されるというスケジュールである.以上のことから,社会実験を入念に計画・実施した上での制度設計・導入を構想していることが伺え,到底,直ちに導入されるというような状況にはないことが分かる.
社会実験の目的として政府は,(1)社会保障システムを労働市場の変化に合わせて作り替える方法を探ること,(2)労働のインセンティブを維持し高めるベーシックインカムの仕組みを探究すること,(3)社会福祉システムを単純化し,官僚制的な仕組みを削減すること,以上3点を挙げている.うち(1)の「労働市場の変化」とは,失業率が8.2%(2015年11月:
Statistics Finland)にものぼる状況を指しているものと思われる.後述するように,現政権は強度の緊縮財政を実施する中道右派連立政権であるが,以上の3項目は,緊縮財政路線と整合的である.事実,Juha
Sipilä首相(中央党)は,「私にとってベーシックインカムとは,社会保障システムを単純化するという意味を持つものだ」と述べていると報じられている.つまり,ベーシックインカム導入が検討されているのは,必ずしも福祉国家の理念からではなく,福祉支出の削減という多分にプラグマチックな動機からであるようだ.
(以下,つづく)
追記:以下の図に見られるように,フィンランドの失業率は歴史的に高水準で推移してきたことも事実であり,高失業は必ずしも最近の現象ではない(縦軸は失業率 (%)/出所:OECD Statisticsより筆者作成).